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紳士の左胸に宿る機能美。『フラワーホール』の起源と、仕立ての美学
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2026.06.25 GINZAグローバルスタイル・コンフォート 札幌パルコ店

こんにちは。

 

 

鈴木(晴)です。

 

 

 

ビジネスやフォーマルの場で日常的に着用するスーツ。

その左胸の襟(ラペル)に、小さなボタン穴のような意匠があるのをご存知でしょうか。

 

現代では社章やピンバッジを留める場所として定着しているこの穴は、テーラーの世界で「フラワーホール(Flower Hole)」と呼ばれています。

一見すると、単なる飾り穴やバッジの固定用パーツに思えるかもしれません。

 

しかし、このわずか2センチに前後の小さなディテールには数百年にわたるメンズウェアの進化の歴史、ロマンチックな伝統、そして国ごとの仕立ての美学が凝縮されているのです。

 

今回はオーダースーツの胸元を彩る最重要ディテール「フラワーホール」について。

その誕生の起源から歴史的な変遷、そして各国におけるスタイルの違いまで、その深遠なる世界を徹底的に解説します。

 

 

(引用:https://boutonniere.shop/blog/2021/03/05/suit_flowerhole/

 

 

1. フラワーホールの起源:なぜ胸元に「使わない穴」があるのか?

 

現代のフラワーホールは「穴」が開いているだけで、対になるボタンは存在しないことが一般的です。

しかし、服飾の歴史において「穴がある」ということはかつてそこに「留めるべきボタンがあった」という動かぬ証拠でもあります。

フラワーホールのルーツを紐解くとスーツの先祖である18世紀〜19世紀の衣服に突き当たります。

 

 

始まりは「防寒・防風のための第一ボタン」

 

当時の上着は、現代のジャケットのように胸元が大きく開いた「Vゾーン」を持っていませんでした。

首元までしっかりとボタンを留める、詰襟(スタンドカラー)に近い形状が一般的だったのです。

 

風が強く吹き付ける屋外や馬を駆る狩猟の場において、紳士たちは寒さをしのぐために襟を完全に立て、首元を最上部のボタンで厳重に留めていました。

この「襟を立てたときの第一ボタンを通すための穴」こそが、フラワーホールの真の始まりです。

 

 

時代の変化と「飾り穴」への退化

 

19世紀に入ると、時代の変遷とともにメンズウェアはより軽快で、リラックスしたスタイルへと移行していきます。

 

室内での歓談やフォーマルな集まりにおいて、紳士たちは首元のボタンを外し襟を外側へ大きく折り返すようになりました。

これが、現代のテーラードジャケットに見られる「ラペル(下襟)」の誕生です。

襟が折り返された結果、かつて首元を留めていた第一ボタンは不要となり右襟の裏側へ隠されるか、あるいは消滅していきました。

 

しかし、左襟に残された「ボタンホール(穴)」だけは、服飾の伝統的な意匠(名残)として仕立ての中に残り続けたのです。

 

 

 

2. シングルとダブルの分岐点:異なるルーツから生まれた二つのシルエット

 

フラワーホールの起源が「第一ボタンの名残」であるならば、ジャケットの形状である「シングル」と「ダブル」によって、その穴の役割や数に違いはあるのでしょうか。

 

現代ではデザインの好みで選ばれることが多い両者ですが、それぞれ全く異なる自然環境との戦いから誕生しています。

この違いが、フラワーホールの存在意義にも大きな影響を与えています。

 

 

① シングルジャケットのルーツ:乗馬と狩猟、そして「前合わせ」の合理性

 

シングルジャケット(前ボタンが一列のもの)の起源は、18世紀頃に英国の貴族たちが愛用していた「乗馬用コート(フロックコートやモーニングコート)」にあります。

 

当時、馬に乗って広大な領地を駆け巡り、狩猟(ハンティング)を楽しむことは、英国紳士にとって最高のステータスでした。

乗馬の際、前合わせが二重(ダブル)になっていると、身体を前傾させたときに胸元がゴワついて邪魔になります。

また、落馬などのアクシデントの際にも、素早く脱ぎ着できる合理性が求められました。

 

そのため、前面の重なりを最小限に抑え、ボタンを一列にした「シングル」の形状が発展します。

 

動きやすさを追求したこの乗馬服がやがてタウンウェアとして簡素化され、19世紀後半に現代のシングルジャケットの原型である「ラウンジジャケット」へと進化していきました。

 

シングルジャケットのフラワーホールは、前述の通り「折り返した襟の最上部(第一ボタン)の名残」として左側に一箇所だけ配されるのが世界的な基本ルールとなっています。

 

 

② ダブルジャケットのルーツ:吹き付ける洋上の風に挑んだ「海軍の防寒服」

 

一方で、ダブルブレストジャケットのルーツは、大地ではなく「海」にあります。

 

その起源は、18世紀の英国海軍が着用していた海防服、あるいは19世紀に漁師や海軍が着用していた「ピーコート(Reefer Jacket / Reefer Coat)」です。

遮るもののない洋上は、常に激しい突風と寒波に晒されます。

 

船乗りたちは、どの方向から風が吹き付けても衣服の中に風が侵入しないよう、前合わせを左右どちらでも留められる二重構造のジャケットを考案しました。

風向きに合わせてボタンの掛け方を左右で変え、常に風下側に前合わせがくるように工夫していたのです。

 

この機能的な海軍の防寒服が、20世紀に入るとイギリスの貴族や皇太子(後のエドワード8世など)によってスポーツウェアやリゾート着として私服に取り入れられ、「ダブルブレストスーツ」へと昇華していきました。

 

 

ダブルのフラワーホールが「左右両方」にある理由

 

ダブルジャケットの襟を見ると、お店やブランドによって「左側だけに穴があるタイプ」と、「左右両方の襟に穴があるタイプ(両穴)」が存在することに気づくはずです。

 

海軍の防寒服だった時代、風向きによって「右前」にも「左前」にもボタンを掛け替えていたため、本来は左右どちらの襟にもボタンホールが必要でした。

これが「左右両穴」の歴史的なルーツです。

 

 

(引用:Anderson & Sheppard

 

 

 

3. なぜ「花」の穴なのか? 2つのロマンチックな歴史的背景

 

ただの「古いボタン穴」であったラペルの穴が、なぜ「フラワー(花)」という優美な名前で呼ばれるようになったのでしょうか。

 

そこには、19世紀から20世紀のイギリス王室を発祥とする、非常にロマンチックな2つのエピソードが関わっています。

 

 

説①:アルバート公とヴィクトリア女王の婚礼の誓い

 

最も広く知られているのが、19世紀の英国黄金期を築いたヴィクトリア女王と、その夫であるアルバート公にまつわる逸話です。

 

1840年、二人の結婚式の日のこと。

ヴィクトリア女王は、最愛の婚礼相手であるアルバート公に、愛情の証として小さな花束(または一輪の小花)を手渡しました。

 

突然の贈り物に感激したアルバート公ですが、当時の格式高い婚礼衣装には花を固定するようなポケットもピンもありません。

そこで彼は、着用していたジャケットの左襟にあった「古いボタン穴」にナイフでさっと切れ目を入れ、そこに女王から贈られた花を挿し込んで微笑んだと言われています。

 

この高貴でロマンチックな振る舞いが、当時のイギリス貴族や庶民の間で瞬く間に大流行し、襟の穴に花を挿し込む文化=「フラワーホール」として定着したとされています。

 

 

説②:稀代のファッショニスタ、エドワード8世のウィンザー・スタイル

 

もう一つの有力な説は、エドワード8世(後のウィンザー公)にまつわるものです。

20世紀初頭に「ウィンザーノット」や「プリンス・オブ・ウェールズ・チェック」など、現代にも続くトレンドを生み出した着道楽です。

 

彼は非常に美意識が高く、伝統的なルールを破って新しいエレガンスを生み出す天才でした。

 

エドワード8世が自身のジャケットの左ラペルにある退化したボタン穴に、好みの生花(カーネーションやバラの蕾など)を挿して公の場に現れたことで、それが「最先端の紳士の嗜み」として世界中に模倣されるようになったという背景もあります。

 

 

ヨーロッパに伝わる「求婚の習わし」

 

また、ダーズンローズと呼ばれるヨーロッパの古い民間伝承もフラワーホールの名声を後押ししています。

 

男性が野に咲く美しい花を摘みながら愛する女性の家に向かい、束ねた花束を渡して結婚を申し込みます。

女性がその求婚を受け入れる場合、「YES」の返事の代わりに、花束の中から最も美しい一輪を抜き取り、男性の胸元に挿し込むという習慣がありました。

 

この胸に挿された一輪が、現代の結婚式で新郎が胸に飾る「ブートニエール(Boutonniere)」の起源であり、左襟の穴が「フラワーホール」と呼ばれる決定的な理由となったのです。

 

 

 

4. 国ごとの違い:英国・イタリア・日本にみるフラワーホールの美学

 

スーツの起源は英国ですが、それが世界中に伝播する中で各国独自の気候、文化、そして「美意識」によってスーツの仕立て(スタイル)は多様に進化しました。

 

実はフラワーホールは、その国の仕立てのアイデンティティが最も色濃く現れるパーツの一つです。

ここでは英国、イタリア、そして日本の3つの国におけるフラワーホールの特徴と、そこに込められたクラフトマンシップの違いを深掘りします。

 

 

① 英国(ブリティッシュ・スタイル):伝統と規律を重んじる「直線の美」

 

オーダースーツの聖地、ロンドンのサヴィル・ロウに代表される英国スタイルは、軍服や乗馬服をルーツに持つため、堅牢で構築的なシルエットが特徴です。

 

英国流のフラワーホールはその全体の雰囲気に合わせ、非常に直線的な形状に仕上げられます。

過度な装飾を嫌い、「あくまでもかつてのボタンホールの再現である」という慎ましさが、その真面目な穴かがりに現れています。

 

1インチのこだわり:

原点となった軍服や乗馬用コートの釦は、現代の主流である直径2cmよりもやや大きいものが使用されていました。

釦ホールは「釦の直径+厚み」で算出されるため、1インチ(2.54cm)が標準となっています。

 

歴史への敬意:

英国では歴史的な伝統が重要視されます。

そのため、ダブルブレストで仕立てる場合は必ず左右にフラワーホールが誂えられます。

 

フラワーループの伝統:

英国の高級ビスポークでは、ラペル裏(フラワーホールの下)に、「フラワーループ(絹糸で作られた紐)」が必ず仕込まれます。

これは表から挿した花がぐらつかないよう、茎を裏側で固定するための実用的なディテールです。

見えない部分にまで歴史と実用性を忍ばせる、英国紳士らしいストイックな美学と言えます。

 

 

(引用:Anderson & Sheppard

 

 

② イタリア(クラシコ・イタリア):胸元に立体感と色気をもたらす「職人技」

 

英国のスーツが「構築的」であるのに対し、イタリア(特にナポリやミラノ)のスーツは中綿や芯地を極限まで省いた身体に吸い付くような「柔らかさ」と「色気」を重視します。

 

イタリア流のフラワーホール、特に最高峰とされるのが「ミラネーゼ」と呼ばれるものです。

 

ミラネーゼ・ボタンホールの特徴:

通常の釦ホールは生地を切り裂いた後にその周囲を糸でかがりますが、ミラネーゼ仕様は異なります。

となる太い芯糸(ギンプ)を生地の縁に這わせ、その上から最高級のシルク糸を隙間なく恐ろしいほどの高密度で巻き付けていきます。

 

立体感と美しい「雫型」:

出来上がったフラワーホールはまるでシルクのコードがラペルの上に立体的に浮き上がっているかのような、独特のボリューム感を持ちます。

形状もただの直線ではなく、片側が丸く膨らんだ「ティアドロップ(雫型)」を描くのが特徴です。

光沢のあるシルク糸が胸元で艶やかに輝き、イタリアらしい華やかさとビスポークであることの強烈な証明(ステータス)となります。

 

 

(引用:Reddit

 

 

 

③ 日本:正確無比な縫製と「機能性」への最適化

 

日本のオーダースーツおよび洋服産業は、明治時代に英国の文化を輸入することから始まりました。

そのため基本的には英国の質実剛健なスタイルを受け継いでいますが、日本独特の「職人気質」と「ビジネス文化」によって、独自の進化を遂げています。

 

狂いのないミシン・手かがり:

日本の高級テーラーにおけるフラワーホールは、針目の細かさ、等間隔の仕上がりがまさに職人芸と言われています。

1ミリの狂いもなく正確に並んだステッチは、日本の職人が持つ細やかさの象徴です。

 

「バッジホール」としての最適化:

日本のビジネスシーンにおけるフラワーホールの最大の役割は、花を挿すことではなく「社章」や「資格バッジ(弁護士徽章、公認会計士バッジなど)」をピンで留めることです。

 

既製服や一部のパターンオーダーでは社章の細いネジやピンがグラつかないように、あえて穴を完全に貫通させない店もあります。

真ん中にだけ小さなピン用の隙間を開けるなど日本ならではの実用的な工夫が施されています。

 

 

 

5. 現代のオーダースーツにおけるフラワーホールの楽しみ方

 

現代のビジネスにおいて、毎日生花を胸に挿して出社するのは現実的ではありません。

しかし、せっかくオーダースーツを仕立てるのであれば、このフラワーホールをただの「社章の穴」にしておくのはもったいないことです。

最後に、大人の余裕を演出する、現代的なフラワーホールの活用術をご紹介します。

 

 

配色(糸の色)を変える遊び心と、知っておくべき「本来はNG」の理由

 

現代のカジュアルジャケットや個性を出したいビジネススーツでは、フラワーホールの糸の色をあえて表地と異なる色(ボルドーやブライトブルーなど)に変えるカラークロス仕様をよく見かけます。

 

これはオーダースーツならではの分かりやすいお洒落として人気ですが、実はこれには明確なルーツがあり、クラシックのルールにおいては「NG(マナー違反)」とされる行為でもあります。

 

 

色糸変更のルーツ:遊びの既製服、ブランドの記号

 

フラワーホールの糸の色だけを変えるデザインは、サヴィル・ロウのような伝統的な仕立て屋から生まれたものではありません。

 

そのルーツは1960年代、ビートルズのスーツを手掛けた伝説的なテーラー『トミー・ナッター』をはじめとするデザイン性の高いスーツの台頭。

そして既製服が大量生産される中で、「手仕事のオーダー品のように見せるための記号」として考案されたという説が有力です。

 

それまでオーダースーツの裏メニューでしかなかった派手な裏地や色糸の変更を既製服に取り入れ、大量生産で商業化したのが以外にも英国の企業である「ポールスミス」でした。

 

 

 

大量生産のミシン縫いであっても、一箇所だけ糸の色を変えれば目立ち、消費者に「こだわりのデザイン」としてアピールしやすかったためです。

 

また、イタリアの有名ブランド「ラルディーニ」がジャケットに花のブローチを付属させたように、ブランドのアイデンティティを胸元に仕込む商業的な流行から定着していきました。

 

 

なぜクラシックでは「NG」とされるのか?

 

伝統的な紳士服の世界において、フラワーホールの色糸変更は基本的に推奨されません。

理由は主に以下の2点です。

 

 

①「生地と釦ホールの色は揃える」という大原則

 

フラワーホールは前述の通り「かつてボタンを留めていた穴」です。

服飾のルールでは、ボタンホールの糸の色は「ボタンの色」か「生地の色」に合わせるのが鉄則です。

対になるボタンもないのに穴の糸だけを全く違う色にするのは、歴史的・機能的な辻褄が合わない「不自然な装飾」とみなされます。

 

 

②主役は「花」や「バッジ」であるべきという思想

 

フラワーホールはあくまで花を挿したり、勲章やバッジを留めたりするための機能です。

穴の糸自体を目立たせてしまうと、そこに花を挿したときに色が喧嘩してしまいます。

 

そしてそのフラワーホールはスーツという身分や社会的地位を示す記号の一部であり、着ている本人よりも目立つことはあってはならないことです。

 

「器が主役よりも目立ってはいけない」という引き算の美学から、本来は生地と同色の目立たない糸で仕上げるのが正統とされています。

 

 

現代ビジネスでの取り入れ方

 

現代の日本のビジネスシーンにおいて、フラワーホールの色糸変更が即座に悪印象を与えるケースは稀です。

しかし金融・法律関係の厳格な職種、あるいは海外の要人と会うような「国際標準(グローバルスタンダード)のマナー」が求められる席では、「教養不足」「落ち着きがない」と捉えられてしまうリスクがあります。

 

そのため、もしオーダーで色糸を変える場合はコントラストの強い派手な色は避け、同系色でよく見ると気づくレベルのさりげない匙加減に留めるのが、大人の洗練された選択と言えます。

 

カジュアルなジャケットでは生地の色よりも濃い色(ベージュの生地に黒糸の釦ホールなど)はデザインとして引き締まるので個人的には結構好みです。

 

 

 

まとめ:小さな穴に、紳士のこだわりを込めて

 

スーツの左襟に佇む、小さな「フラワーホール」。

それは、乗馬や洋上といった過酷な自然環境の中で襟を立てていた「機能の歴史」であり、愛する王妃からの花を受け取ったアルバート公の「ロマンの記憶」でもあります。

 

そして現代においては英国の堅実さ、イタリアの艶っぽさ、日本の誠実さといった着手の「美学」を体現するオーダースーツにおける最高の自己表現パーツとなりました。

 

次に街を歩く際は、ぜひこの左胸の小さな穴に注目してみてください。

 

あなただけの歴史とこだわりをその胸元に宿すことこそ、オーダースーツという贅沢な真髄です。

 

 

札幌パルコ店 鈴木(晴)

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